新宮山彦ぐるーぷは、2つの出会いによって、当時歩くことができなかった大峯奥駈道の南半分を復興させ、
文化財行政(奈良県十津川村、下北山村)から委託される世界遺産の「道」の管理団体になった。1つ目は、
日本の生態学者で文化人類学者、登山家でもあった今西錦司との出会いである。1905年に設立された日
本山岳会での活動を通じて玉岡と知り合った今西は、よく学生を連れて熊野地方の山々を訪れた。
今西は日本の野外科学の先導者とされ、探検と登山および学問が不可分であることを繰り返し指摘し、「パ
イオニアワーク(創造的な登山)」と「野外(fi eld)」を重視していた(今西 2014)。
戦前・戦中には在籍していた京都帝国大学で白頭山遠征隊を率いたり、内蒙古学術調査隊に参加したり、
京都探検地理学会を設立したりして、様々な分野、人物に多大な影響をもたらした。
戦後は、日本山岳会マナスル登山の先発隊長としてネパール国ヒマラヤ山脈を踏破するなど、登山ブームの
火付け役としても知られている。
今西が新宮山彦ぐるーぷに与えた影響とは、自身が会長を務めた日本山岳会とは別に創設した「十二支会」
と呼ばれる年に一度、その年の十二支を名に含む名前の山に登る活動において、1984年に三
重県紀宝町にある子ノ泊山を訪れたことである。玉岡は事前に十二支会のメンバーを案内するため、山彦新
道と呼ばれる登山道を作った27)。それ以降、玉岡は土木作業を含む道づくりに傾倒するようになったと当時
を知る仲間たちは口を揃える28)。
2つ目は、玉岡が昭和50年代に出会った本山派の行者で、和歌山県田辺市の出身で大阪府河内長野市に居
を構えた前田勇一との出会いである。
前田は熊野信仰に篤く、1974年に聖護院(京都府京都市)の修験団体による奥駈に参加し、「荒廃してさびれ
た南奥駈の道を刈り開いてよみがえらせ、日本古来の精神文明を見直そう」との決意をもって、田辺市を拠点
とする「奥駈葉衣会29)」を結成した。
前田はその後、1979年に私財をなげうって南奥駈道再興の活動拠点とするための持経宿を大峯奥駈道のルー
ト上に建設し、10年の闘病生活総研大文化科学研究 第20号(2024)()220活動を続けた。1973年から奥駈葉衣
会が刊行した機関誌『奥駈』は、前田が1981年に亡くなる直前まで発行され、「大峯山にまつわる民間伝承」など
大峯山の信仰に関する数多くの資料が含まれている。
玉岡は、奥駈葉衣会の活動について、「熊野に住んでいる我々として傍観することは出来ない。
熊野の浮上の一役にもつながることとして積極的にこの会を支持した」(玉岡 1992)という。前田が鬼籍に入っ
た後、奥駈葉衣会は自然消滅となり、持経宿山小屋の管理は新宮山彦ぐるーぷが引き継ぐことになった。屋根
のペンキ塗り、便所の汲み出し、薪の補給などを継続して行ったが、「この山小屋を活かすには、只管理だけで
は不充分で、繁った道を刈拓くしかない」(玉岡1992)と結論を出した。
玉岡がこの結論に至るまでには、今西錦司ら提唱していた「パイオニアワーク(創造的な登山)」を志向している
点と、前田勇一が亡くなる一年半前、最後の闘志をかき立てて、東奔西走、孤軍奮闘の結果、持経宿山小屋を
建設し、「死の直前まで大峯奥駈道の再興に想いを馳せられていた」(玉岡 1992)ことが影響している。
4.2 設立者・玉岡憲明と千日刈峰行前田の活動を個人的に手伝っていた玉岡と新宮山彦ぐるーぷの有志達は、
同氏の遺志であった南奥駈道の刈り拓き作業を引き継いだ。1984
年6月9日から延べ3年間で24回、稼働日数315日かけて太古の辻から本宮備崎までの大峯奥駈道の南半分の
コース、約45キロメートルを貫通させた。行者の千日回峰行になぞらえて「千日刈峰行」と名付けられ、道づくりに
必要な資金の大半は、仲間内からの拠出によって賄われた。
引き続いて、翌年から7年かけて2巡目を実施、さらに続けた3巡目も7年かけて終了させた(表1)。
表1 新宮山彦ぐるーぷの主な活動の歩み(新宮山彦ぐるーぷ 2016を参照)
新宮山彦ぐるーぷ活動の主な歩み
年月出来事
1974年4月新宮山彦ぐるーぷ発足(世話人代表:玉岡憲明)
1975年5月天台寺門宗・三井寺の大峯奥駈行七十五靡(順峯)復興サポート
1975年5月奥駈葉衣会と協賛行事(上葛川~葛川辻~笠捨山)
1975年6月奥駈葉衣会・新宮支部結成(支部長:玉岡憲明、1977年8月解散)
1977年7月奥駈葉衣会行事「釈迦ヶ岳清掃登山」協賛行事
1978年8月今西錦司1000山「釈迦ヶ岳」慶祝登山支援
1981年5月平治宿・手動式水洗便所完工
1981年5月前田勇一逝去(享年68歳)、持経宿小屋の維持・管理を引き継ぐ
1983年1月十二支会(今西錦司創設)例会「亥ヶ谷山」協賛行事
1983年11月十二支会例会に向けて「子ノ泊山」に山彦新道開設
1984年3月十二支会例会「子ノ泊山」協賛行事
1984年6月千日刈峰行1巡目開始(持経宿~平治小屋間)
1985年11月今西錦司1500山(白髭岳)登頂登山支援
1986年11月千日刈峰行1巡目終了(太古ノ辻~熊野本宮間45km、延315日)
1987年4月千日刈峰行2巡目開始
1987年4月熊野修験第1
総研大文化科学研究 第20号(2024)56
219
山本恭正 「熊野の道」の歴史を実践する
1988年5月アルミ缶回収運動(同年9月までに、172,364個回収、265,194円計上)
1989年9月行仙宿敷地造成(1990年4月完成)
1990年6月行仙宿・行者堂竣工(1990年5月着工、延985日、費用約2,000万円)
1991年6月平治宿小屋建替え(1991年3月着工、延360日)
1993年4月千日刈峰行2巡目終了、延174日
1993年10月千日刈峰行3巡目開始
1994年10月深仙灌頂堂・深仙宿避難小屋修復(1994年6月着手、延229日)
1995年10月行仙宿補給路開設(1994年4月着手、延99日)
1997年11月今西錦司白髭岳登頂記念碑建立除幕式(今西先生を偲ぶ会5周年)
1999年11月千日刈峰行3巡目終了、延275日
2000年10月環境庁自然保護局から自然歩道関係功労者賞を受賞
2003年10月行仙宿管理棟竣工(2002年6月敷地造成、2003年3月建築着工、延682日、費用440万円)
2005年1月2004年度シチズン・オブ・ザ・イヤー賞(シチズン賞)授賞式
2007年7月釈迦ヶ岳山頂の釈迦像復元支援(2006年11月釈迦像解体荷下ろし、2007年8月落慶法要)
2008年1月十二支会協賛登山(5巡目・子ノ泊山)
2010年8月ソーラー発電により小屋が点灯する(行仙宿)
2012年4月大峯奥駈道二ツ石~閼伽坂峠尾根~前鬼小仲坊ルート整備
2013年3月近畿中国森林管理局と「多様な活動の森」整備活動に関する協定書締結
2013年4月世話人代表交代(玉岡憲明から川島功へ)と事務局(沖崎吉信)を設置
2013年7月行仙宿「社員合宿研修会」ツアー(十津川村)協賛
2013年12月持経宿に薪ストーブ設置
2014年2月行仙宿にヘリで荷上げと荷下ろし(鉄筋・カマド等約600キログラム)
2014年6月行仙宿で初社会人の作業体験研修(新入社員教育の一環)
2014年6月玉岡憲明前代表が平成26年度環境大臣表彰を受賞
2014年7月平治宿にロケットストーブを据付、宿内棚・靴置場を設置、毛布を備付
2014年9月大峯奥駈道「釈迦ヶ岳~仏生ヶ岳~楊枝ノ森」間の倒木処理
2014年11月平治宿の尾根ペンキ塗替え
2015年4月持経宿・平治宿・行仙宿の志納金(宿泊料金)2,000円以上/泊に改定
2015年4月南奥駈道(持経宿~太古の辻)の安全点検と倒状石柱道標復旧
2015年8月持経宿改築・不動堂屋根葺き替え完工(2015年5月着手、延34日、職人延63名、会友延174名、
寄付金520万円、寄付された木材50万円分、費用400万円)
2015年9月大峯奥駈道・記念道標「これより・大峯・南奥駈道」(長さ2.5メートル、約25キログラム)の更新
2015年11月修験道では、峰に宿る聖性30)を重視し、峰々の稜線を忠実にたどり、どんな小さな峰でも踏
みしめて歩く。そのため、尾根を基準として、
玉岡がルートを特定していったが、道を刈り拓いた部分と山仕事などである程度整備されていた部分とが
あった。しかし、「道」は初めからそこにあったわけではなく、新宮山彦ぐるーぷの活動があったからこそ、
「道」として機能するようになったという認識が地域社会では共有されている31)
総研大文化科学研究 第20号(2024)()
218
今でこそ、新宮山彦ぐるーぷは、様々な団体の寄付金32)、地元行政からの委託料、山小屋の宿泊料など
によって活動費を捻出している。しかし、主婦だったメンバーは活動当初、道づくり用の資金を調達するため
に「大量の空き缶を集めてきて潰したものを引き取ってもらった」と述懐する。「永年に亘る千日刈峰行は次
第に多くの支援協力者にも助けられるようになり、更に発展して南奥駈道の維持作業ならびに途中にある持
経宿、行仙宿、平治宿の建設・修繕・清掃へと拡大していった」(城島 2021: 83)。この3つの宿(無人小屋)は、
いずれも新宮山彦ぐるーぷが維持・管理を行っている。
玉岡は「道」を担う一連の活動について、「ボランティアではなく、行(修行)として行う」と、常々口にしてきた。
しかし、メンバーの活動の動機には、設立者でリーダーシップを発揮していた玉岡の願いを叶えたいという理
由だけでは説明ができない部分がある。メンバーが総じて山好きで、比較的良好な人間関係を構築できてい
たという背景はあるかもしれない。しかし彼らは、前田が果たそうとした「道」の再興を通じた日本古来の精神
文明の復興や玉岡がたびたび口にしていた「熊野の生き方」のようなものを継承する活動にどこかで共鳴して
いた側面もあったのではないだろうか。
2019年から新宮山彦ぐるーぷの3代目の世話人代表を務めている沖崎吉信33)によれば、玉岡は「大峯の歴
史・伝統が第一で、熊野の生き方・歴史・文化・宗教の知識を究める努力」の必要性を強調していたという。
玉岡の人柄を物語るエピソードがある。新宮山彦ぐるーぷのメインの活動拠点で南奥駈道の佐田ノ辻に1990年
に建設された行仙宿に、山道から山頂の中継地点まで荷物運搬用のモノレール(図2)をつけることになった。
図2 山道から行仙宿までをつなぐ運搬用モノレール(2021年5月2日筆者撮影)
総研大文化科学研究 第20号(2024)58
217
山本恭正 「熊野の道」の歴史を実践する
工事は地元新宮市の株式会社カマハラテックが50万円を寄付し、新宮山彦ぐるーぷが50万円を負担して、
合計100万円で請け負った。その際、体を悪くして山を歩ける状態ではなかった玉岡が、息子にひもでおぶ
られて、現場まで視察に来たことがあった。カマハラテックの従業員たちがその様子を見て、玉岡のこれま
での生き方を知り、社長に報告したところ、後日社長が新宮山彦ぐるーぷが負担する50万を受け取らず、
全額負担したうえで、さらに50万円を寄付すると言い出した。
モノレールの工事が無事に終わり、整備も進んだ大峯奥駈道には、レジャー登山などで、観光客が気軽に
訪れることも多くなっていく。また、1990年代から熊野地方全体に共通する資源として熊野古道にスポットラ
イトが当たり、行政が主導する、「道」を通じた文化遺産化、観光化の動きが加速していくことになるが、大峯
奥駈道の世界遺産リストへの記載はその後の彼らの「道」を担う活動継続の直接的な動機にはならなかった
ようだ。
沖崎は、宗教関係者から「大峯奥駈道が世界遺産になれたのは、南奥駈道を開拓したからだ」と言われた
ことはとても嬉しかったが、玉岡の「山彦ぐるーぷはあくまで歌舞伎でいうところの黒子、主役は登山者や修
行者」という言葉を重く受け止めている。山の中で、仲間たちと再会したり、新しい人と出会ったり、一緒に同
じ方向を向いて歩いたり、社会的な課題を解決したり、読経や写経をしたり、ご飯を食べたり、日常のことを
おしゃべりしたりしながら、「地縁」や「血縁」とは異なる、「熊野の道」を媒介としたつながりによって、実践に
基づいた共同性が構築されている。
5.大峯奥駈道の管理・保全5.1 公的機関による管理・保全世界文化遺産リストにおける大峯奥駈道の「現
在の保存状況と修理及び整備の歴史」(三重県・奈良県・和歌山県教育委員会 2005: 68)では、「道と沿道の
宿跡・行場等の交通及び宗教関連遺跡、社寺関連遺跡などを文化財保護法の下に厳重に保護しているのみ
ならず、吉野熊野国立公園の区域にも含まれ自然環境を良好に保全されている」と記載されている。